日々の生活から気になる事柄やものたちを、日記を通して紹介していくサイトです。水曜日には「やわらかい英文法」と題して、英語に関することを載せています。(平成23年3月現在)
季節は冬なのに、のどかなお天気が続いてます。
この気候なら早朝の旗振りもさほど辛くないだろう。
小学生の母親にとって、順番に回ってくる横断歩道での旗振りの
仕事が真冬に当たると、とても辛くて。いや辛かったのを今ありありと
思い出した。
私が現役だった十数年前から旗振りはきちんと受け継がれているようで、
平日の朝8時頃車で横断歩道を横切ると、腕章をつけたお母さんが旗を
片手に、子供たちを導き守っている。
それでも子供の卒業とともにお母さんの旗振りは終了するので、10年も経てば
”お母さん総入れ替え”となるのだが、コンビニ前の横断歩道で毎日旗振りをして
くれている”おじさん”は、ずっと同じおじさんであった事実を最近聞かされる。
ある日、車の後部座席に座っていた息子が驚きの声をあげた。
「まだあのおじさん旗振りやってんだ! 俺、実はあのおじさんとマブダチ
なんだよ。」息子が遠くなりゆくおじさんを目で追って、頭を回旋させているのが
ミラーに映った。
「大きい声で「おはようございます!」っていうと、「おっ、今日も元気だね。」
ってよく言ってくれていたんだ。学校休んだ次の日は、「昨日はどうしたんだ?
心配してたんだぞ。」と気にしてくれてもいたし。」
親の知らないところで、子供たちはきっとたくさんの人達に育てられて来たんだね。
今日もコンビニの前でおじさんは小学生を優しく手招きして誘導していた。
おじさんは、子供たちを無事に渡らせると、かざしていた旗を引っ込めながら
停車している私たちに会釈をした。
私もおじさんに会釈をし、ありがとうございます。と心の中でつぶやいた。
、
この気候なら早朝の旗振りもさほど辛くないだろう。
小学生の母親にとって、順番に回ってくる横断歩道での旗振りの
仕事が真冬に当たると、とても辛くて。いや辛かったのを今ありありと
思い出した。
私が現役だった十数年前から旗振りはきちんと受け継がれているようで、
平日の朝8時頃車で横断歩道を横切ると、腕章をつけたお母さんが旗を
片手に、子供たちを導き守っている。
それでも子供の卒業とともにお母さんの旗振りは終了するので、10年も経てば
”お母さん総入れ替え”となるのだが、コンビニ前の横断歩道で毎日旗振りをして
くれている”おじさん”は、ずっと同じおじさんであった事実を最近聞かされる。
ある日、車の後部座席に座っていた息子が驚きの声をあげた。
「まだあのおじさん旗振りやってんだ! 俺、実はあのおじさんとマブダチ
なんだよ。」息子が遠くなりゆくおじさんを目で追って、頭を回旋させているのが
ミラーに映った。
「大きい声で「おはようございます!」っていうと、「おっ、今日も元気だね。」
ってよく言ってくれていたんだ。学校休んだ次の日は、「昨日はどうしたんだ?
心配してたんだぞ。」と気にしてくれてもいたし。」
親の知らないところで、子供たちはきっとたくさんの人達に育てられて来たんだね。
今日もコンビニの前でおじさんは小学生を優しく手招きして誘導していた。
おじさんは、子供たちを無事に渡らせると、かざしていた旗を引っ込めながら
停車している私たちに会釈をした。
私もおじさんに会釈をし、ありがとうございます。と心の中でつぶやいた。
、
自分にとってはとても意味あることでも、他人にとっては取るに
足らないことである場合はままあると思う。
自分の幻想をきちんと現実世界に引き連れうまく仲直りさせた所から、
新たに出発しようと思ったのである。何を言っているのかわからない
でしょ? 一年の終わりである12月を前にして、来年はもっとしっかり
と地面に脚をつけて生きていくために、ひとつのことを終えた。
なんだかすっきりした私は、気持ちよく12月に向き合って、粗大ゴミの処分、
大掃除の計画、コミュニュケーションツールとしての英語勉強プラン、歯医者
さんのアポイントメント、新しいカーテンのオーダーなどにいそいそと取り組ん
でいる。
病気になってから、体とのコミニュケーションも濃密になって、自分の身体に
問いかければ問いかけるほど、よりわかりやすい反応が帰ってくるようになって
きた。コミニュケーションは大事だね。自分の身体も実は色々なことを訴えて
いたのに、私は聞く耳持たなかったんだ。でも最近、まだささやき声ではあるけれ
ど、その流れて行きたい方向性みたいなものが見え始めたんだ。
11月の終わりに、クロゼットから必要以上に大きなクリスマスツリーを引っ張り
出して、例年通り飾り付けた。いくつになっても子供みたいにツリーのピカピカが
好きでね。12月はこのささやかな灯りの点滅とともに暮らしています。
足らないことである場合はままあると思う。
自分の幻想をきちんと現実世界に引き連れうまく仲直りさせた所から、
新たに出発しようと思ったのである。何を言っているのかわからない
でしょ? 一年の終わりである12月を前にして、来年はもっとしっかり
と地面に脚をつけて生きていくために、ひとつのことを終えた。
なんだかすっきりした私は、気持ちよく12月に向き合って、粗大ゴミの処分、
大掃除の計画、コミュニュケーションツールとしての英語勉強プラン、歯医者
さんのアポイントメント、新しいカーテンのオーダーなどにいそいそと取り組ん
でいる。
病気になってから、体とのコミニュケーションも濃密になって、自分の身体に
問いかければ問いかけるほど、よりわかりやすい反応が帰ってくるようになって
きた。コミニュケーションは大事だね。自分の身体も実は色々なことを訴えて
いたのに、私は聞く耳持たなかったんだ。でも最近、まだささやき声ではあるけれ
ど、その流れて行きたい方向性みたいなものが見え始めたんだ。
11月の終わりに、クロゼットから必要以上に大きなクリスマスツリーを引っ張り
出して、例年通り飾り付けた。いくつになっても子供みたいにツリーのピカピカが
好きでね。12月はこのささやかな灯りの点滅とともに暮らしています。
自然公園を散歩していようが、また舗装された道路を歩いていようが、美しい葉っぱの
彩に目を奪われるこの季節。
家の近くのイチョウ並木は、延々と続くのかと思われるほど黄色い世界を繰り広げている。
首を伸ばしてその連なりを眺めると、二列の木々がだんだんと呼び合うように互いに
近づきながらその都度一回りずつ小さくなり、その尻すぼみの一番向こう側のわずかな
「点」と成るまで、ぬかりなく丁寧に連なっているのだ。
その一つ一つの木のあふれんばかりのイチョウ葉が、ゆさゆさと風に揺れ、羽ばたく大群の
モンキチョウのように見えるのも、この時期の私の楽しみの一つでもある。
前回書いた昆虫話の続きのつもりはまったくないのだが、最近「ワイルドライフ」という番組
で、コスタリカに生息する「ツノゼミ」を知る。
「ツノゼミ」は擬態の王者で、薔薇のトゲにそっくりの「薔薇のトゲツノゼミ」がいるかと
思えば、何と、鳥や虫のうんちに擬態した「ムシノフンツノゼミ」がいたりする。
他にも、木の新芽 鳥 蜂 蟻などに擬態しては敵から身を守っているのだから、不思議である
事この上ない。
実は私、この「擬態」、不思議過ぎて超苦手なのです。
私にとって世の中は、実にわからないことだらけで不思議なことも多いけれど、大体のことは
私の頭には難し過ぎて、身震いを起こさせるほどの具体性で私に迫ってくることはないのである。
一方この「擬態」・・ある物に成りすまして敵の目をかわす・・というのはとても単純なことで
しょ? それだけに直接的な身震いを私に起こさせるのだ。
敵を欺くことで身を守る。その目的に向かって進化したというのなら、虫に意思はあるというのか。
それとも敵から身を守るのは本能なのだから、その対応策として、複雑なものに形や色を変えて
似せていく過程に、意志決定の積み重ねは必要ないということか?
とにかく擬態はいつの時でも私に「畏怖」を感じさせるほど不思議なことなのです。
ツノゼミの中には、「枝にしたたる水滴」に擬態したものもあって、この、露にそっくりな可愛い
ツノゼミを見た時ばかりは、擬態の偶然的芸術に感動を覚えた。
そうは言っても、イチョウの葉っぱが時々蝶ちょに見えるのは、擬態とはまったく関係ない、
ただの偶然よね。



彩に目を奪われるこの季節。
家の近くのイチョウ並木は、延々と続くのかと思われるほど黄色い世界を繰り広げている。
首を伸ばしてその連なりを眺めると、二列の木々がだんだんと呼び合うように互いに
近づきながらその都度一回りずつ小さくなり、その尻すぼみの一番向こう側のわずかな
「点」と成るまで、ぬかりなく丁寧に連なっているのだ。
その一つ一つの木のあふれんばかりのイチョウ葉が、ゆさゆさと風に揺れ、羽ばたく大群の
モンキチョウのように見えるのも、この時期の私の楽しみの一つでもある。
前回書いた昆虫話の続きのつもりはまったくないのだが、最近「ワイルドライフ」という番組
で、コスタリカに生息する「ツノゼミ」を知る。
「ツノゼミ」は擬態の王者で、薔薇のトゲにそっくりの「薔薇のトゲツノゼミ」がいるかと
思えば、何と、鳥や虫のうんちに擬態した「ムシノフンツノゼミ」がいたりする。
他にも、木の新芽 鳥 蜂 蟻などに擬態しては敵から身を守っているのだから、不思議である
事この上ない。
実は私、この「擬態」、不思議過ぎて超苦手なのです。
私にとって世の中は、実にわからないことだらけで不思議なことも多いけれど、大体のことは
私の頭には難し過ぎて、身震いを起こさせるほどの具体性で私に迫ってくることはないのである。
一方この「擬態」・・ある物に成りすまして敵の目をかわす・・というのはとても単純なことで
しょ? それだけに直接的な身震いを私に起こさせるのだ。
敵を欺くことで身を守る。その目的に向かって進化したというのなら、虫に意思はあるというのか。
それとも敵から身を守るのは本能なのだから、その対応策として、複雑なものに形や色を変えて
似せていく過程に、意志決定の積み重ねは必要ないということか?
とにかく擬態はいつの時でも私に「畏怖」を感じさせるほど不思議なことなのです。
ツノゼミの中には、「枝にしたたる水滴」に擬態したものもあって、この、露にそっくりな可愛い
ツノゼミを見た時ばかりは、擬態の偶然的芸術に感動を覚えた。
そうは言っても、イチョウの葉っぱが時々蝶ちょに見えるのは、擬態とはまったく関係ない、
ただの偶然よね。
30年以上続けてきた家庭教師の仕事も、今教えている生徒さんの大学受験が
終われば一区切り。そのあとは当分お休みして他のことをしようかなと思っている。
小さい時から昆虫が大好きだったという生徒の部屋には、昆虫のフィギャーが
所狭しと飾られている。それがある時期からフィギャーだけでは飽き足らなくなったようで、
本物のカマキリ、蜘蛛、ヤモリなどを捕獲して飼い始めた。
毎週行くたびに透明ケースの飼育箱が増えるので、一体どこまで?と不安になったが、
全部で5~6ケースほどになると、それ以上は増えなくなった。
それでも教えている2時間の間に、カマキリが何度となく「ガサッ」と音を立てるので、
私はその都度気になって振り向いてしまう。その音に反応するというよりも、「交尾した
あとのオスを助けようと思っていたのに、学校行っている間にメスが食べちゃって・・。」
という生徒の話が随分と影響しているのだと思う。
知識としては知っていたけど、「ほんとに食べちゃったんだ・・だんなさんを・・」という
思いが頭から離れず、メスカマキリのお腹の不気味な膨らみを、正視するに忍びないのである。
「ヤモリが3つ卵を産んだんだ。」「卵が孵った。」「その赤ちゃんヤモリが一匹行方不明。」
「カマキリも蜘蛛も卵を産んだ。」
行くたびに昆虫ニュースは更新され、私はその度にドキドキするのだ。
英語を教えていても、その間赤ちゃんヤモリを踏んでしまわないか気が気でしょうがない。
「え~。蜘蛛も卵孵化させるの? 冗談でしょ? 『蜘蛛の子を散らすように』っていう
表現があるくらいだから、すごい数なんじゃないの?収集つかなくなるんじゃないの?」
私の訴えもさほど効果はなかったようで、膨大な数の新しい生命は、着々と育っているようだ。
終われば一区切り。そのあとは当分お休みして他のことをしようかなと思っている。
小さい時から昆虫が大好きだったという生徒の部屋には、昆虫のフィギャーが
所狭しと飾られている。それがある時期からフィギャーだけでは飽き足らなくなったようで、
本物のカマキリ、蜘蛛、ヤモリなどを捕獲して飼い始めた。
毎週行くたびに透明ケースの飼育箱が増えるので、一体どこまで?と不安になったが、
全部で5~6ケースほどになると、それ以上は増えなくなった。
それでも教えている2時間の間に、カマキリが何度となく「ガサッ」と音を立てるので、
私はその都度気になって振り向いてしまう。その音に反応するというよりも、「交尾した
あとのオスを助けようと思っていたのに、学校行っている間にメスが食べちゃって・・。」
という生徒の話が随分と影響しているのだと思う。
知識としては知っていたけど、「ほんとに食べちゃったんだ・・だんなさんを・・」という
思いが頭から離れず、メスカマキリのお腹の不気味な膨らみを、正視するに忍びないのである。
「ヤモリが3つ卵を産んだんだ。」「卵が孵った。」「その赤ちゃんヤモリが一匹行方不明。」
「カマキリも蜘蛛も卵を産んだ。」
行くたびに昆虫ニュースは更新され、私はその度にドキドキするのだ。
英語を教えていても、その間赤ちゃんヤモリを踏んでしまわないか気が気でしょうがない。
「え~。蜘蛛も卵孵化させるの? 冗談でしょ? 『蜘蛛の子を散らすように』っていう
表現があるくらいだから、すごい数なんじゃないの?収集つかなくなるんじゃないの?」
私の訴えもさほど効果はなかったようで、膨大な数の新しい生命は、着々と育っているようだ。
いつもと趣の違う一週間を過ごしていたら、土曜日がまたやってきた。
たくさんの友人と会うことは、「あの人も、この人も、今この時間をどこかで過ごしている。」
という普段無自覚なことを改めて自覚させてくれて、そのことが私を生きやすくさせてくれる。
水曜日には、横山大観を観に、横浜美術館に行ってきた。
メインの美術鑑賞以外に、観覧車に乗ったりランチを楽しんだりと盛りだくさんで、子供時代の
遠足気分の高揚感覚が、遥かかなたの記憶からひょっこり顔を出した。
その気性から思い切りうなづける、自称「超!晴れ女」のTaeがいてくれていたお陰だろう、
雲ひとつない青空のもと観覧車に乗って横浜全体を見渡せたのは、実に爽快だった。
絵が描けない私が絵を観る・・
私には、どういうのがいい絵でどういうのが悪い絵なのかよくわからないが、無知無能な分野で
あっても、自分の「好き 嫌い」を感じる自由のあることが、どこへでも繰り出していける
所以である。
大観を始め、藤田嗣治 ピカソ、たくさんの偉大な絵を至近距離で体験できた。
翌日、ハルと自然公園を歩いていたら、落ちている葉っぱの色に、シャガールの
絵が見えた。美術館に行った影響である。
恥ずかしながら、私の単純さは、このように発揮するのだ。
才能ある芸術家は、自然に存在する色合いを自らの体に吸収し、あるとき衝動的に彼らの
絵筆から、自分の意思とブレンドしたその色合いをひねり出すことができるのだろうと思った。
絵が描けるって素敵だな。私の永遠の憧れ。
ない袖は振れないので、代わりに写真を撮ることで、私は自然との一体化を楽しんでいこうと
思う。






たくさんの友人と会うことは、「あの人も、この人も、今この時間をどこかで過ごしている。」
という普段無自覚なことを改めて自覚させてくれて、そのことが私を生きやすくさせてくれる。
水曜日には、横山大観を観に、横浜美術館に行ってきた。
メインの美術鑑賞以外に、観覧車に乗ったりランチを楽しんだりと盛りだくさんで、子供時代の
遠足気分の高揚感覚が、遥かかなたの記憶からひょっこり顔を出した。
その気性から思い切りうなづける、自称「超!晴れ女」のTaeがいてくれていたお陰だろう、
雲ひとつない青空のもと観覧車に乗って横浜全体を見渡せたのは、実に爽快だった。
絵が描けない私が絵を観る・・
私には、どういうのがいい絵でどういうのが悪い絵なのかよくわからないが、無知無能な分野で
あっても、自分の「好き 嫌い」を感じる自由のあることが、どこへでも繰り出していける
所以である。
大観を始め、藤田嗣治 ピカソ、たくさんの偉大な絵を至近距離で体験できた。
翌日、ハルと自然公園を歩いていたら、落ちている葉っぱの色に、シャガールの
絵が見えた。美術館に行った影響である。
恥ずかしながら、私の単純さは、このように発揮するのだ。
才能ある芸術家は、自然に存在する色合いを自らの体に吸収し、あるとき衝動的に彼らの
絵筆から、自分の意思とブレンドしたその色合いをひねり出すことができるのだろうと思った。
絵が描けるって素敵だな。私の永遠の憧れ。
ない袖は振れないので、代わりに写真を撮ることで、私は自然との一体化を楽しんでいこうと
思う。
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