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日々の生活から気になる事柄やものたちを、日記を通して紹介していくサイトです。水曜日には「やわらかい英文法」と題して、英語に関することを載せています。(平成23年3月現在)
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昨日の朝、車から見る外の景色がいつもと違っていた。
辺りがシーンとしている。
ランドセルを背負った子供たちが消えた。ジャージ姿の中学生も
見当たらない。
あ~、そうか。春休みが始まったんだね。と納得するまでにちょっと
時間がかかってしまった。

そんなこともすっかり忘れて、私は家に帰るとオンラインで映画のチケットを
予約していた。水曜日は映画を1000円で観れる楽しい「レディースデイ」。
心弾んで出かけて行ったら、春休み初日とあって、映画館はお母さんと
お子さんたちで溢れんばかりだった。

でも私の観た映画「それでも夜は明ける」には、さすがに子供さんたちは
居なかった。

この映画は実話に基づいたもので、奴隷制度の残酷さを赤裸々に描いている。
この映画を観た後、私は単純に「人間」、辞めたくなってしまった。
人間の本質を目の当たりにして、自分自身さえも恐ろしくなったのだ。

人間の奥底に組み込まれている残忍性。どうかすると差異を差別化へと大きく
膨らませてしまう嗜好的傾向。ひとりの人間がもうひとりの人間を「物」として
扱う。その「物」が、実は赤い血が流れ、感情があるという事実を生き埋めに
して素知らぬ顔をする。

この映画を観る意味は、たぶん自分たち人間の持っている恐ろしい本質を今一度
認めることであり、と同時に悲惨な出来事を繰り返してはならないとひとりひとり
が心に誓うことであるのだと思う。そのためには、起きたことを事実だと認める作業
が必要で、それはこれまで人間の歴史の中で起きたすべての悲惨な出来ごとにも言える
ことなのだと思う。

残忍とか悲惨とか残酷とか、ネガティブな言葉をたくさん使って気持ちが疲れて
しまったので、ちょっと前に撮った早春の写真を、桜の開花前に載せようと思う。






















とうとうここまで来たかと、諦め心にさえもなる。
本当は2度目のはずなのに、初めてのようにその映画を観ていた。
途中までまったく気がつかない。しかも夫婦二人で。
でもどことなく見覚えのあるシーンに、あれ?と首をかしげ始める。

昨日アンソニーホプキンス主演の「アトランティスのこころ」という
映画を観ていた。途中でハッと気づいてからも、その後の話の流れやエンディング
が思い出せない。こんないい映画なのにほとんど忘れているというのはどう
いうことだろう。

多感な時期の少年 ボビーのアパートに、一人の老人テッドが越してくる。
小さい時に父親を亡くし、仕事に追われている母親の不在に寂しさを感じていた
ボビーが、テッドと仲良くなるのに時間はかからなかった。

何気なく語らい合いながらも、テッドの深みのある言葉はボビーの心にその都度
届き、彼は成熟への扉を開きはじめるのだ。

ここでとても異色なのは、テッドが普通の老人ではなくサイキック(超能力者)で
あったこと。彼の能力を必要とする政府組織から逃れ、身を隠すためにボビーの
アパートに引っ越してきたのだ。

自分の能力ゆえに、普通の幸せを手に入れることのできなかったテッド。
テッドにとってもボビーとの日々は、温かくて人間臭い、この上ない幸せな日々で
あったに違いない。人々の、特にボビーの心情が細やかに描かれていて、とても入り
込める映画だったのだ。

なのに、なのに、忘れていた。中身ほとんどを。見たことさへも。エンディングも、だ。

二度目のはずなのに、「このあとどうなるんだろう?」とワクワクできるなんて、
いわば「倍 美味しい」わけで、自分の記憶の貧しさを悲しむよりも、その部分をあえて
見るようにしようか・・しょうがないもの。

でも、旦那と言ってたんだけどね、二人ともこんなにきれいに忘れるなんて、テッドの
超能力パワーが観てるこっち側にも及んで、我々の記憶力を操作したのではないかって。
何言ってるんだって思うでしょ。でもそうしか思えない不思議さを感じる映画だったの。

そういう感覚を感じたい人は是非観てみてくださいな。







地上に足がついている安心感。地球人である誇り。
重力は神様の贈り物だったの?・・ 見てきましたよ。ゼログラビティ。
しかも今まで2Dに固執していた私が、3DIMAXで。
もちろん私の好みではなくダンナのお供をしただけなのだけれど。

人を何かのジャンルで二つのタイプに分けることは、数限りなくできるだろうけど、
例えば、可能なら宇宙に行ってみたいと思う人と、絶対に行きたくない人のグループ
があったとしたら、私も間違いなく後者に属します。

もともと三半規管に自信のない私は、浮遊感とか、とてつもない広がりとか、無限とか、
そういう感覚を想像しているだけで吐き気がしてしまいそうなの。
遊園地のぐるぐる回る乗り物で、恥ずかしながら泣きわめいたことのある私です。

それにしても、映画を観終わって、どれだけ自分が地球を愛しているのかがよ~くわかった。
「愛している」なんて大げさだと思うでしょ? じゃ、ゼログラビティ観てみて。
きっと思うから。地面に頬ずりしたくなるかもよ。

地球という美しい星の表面に根付くことのできる幸せ。
ここには数限りない植物があり、動物がいる。海がある。山がある。
深呼吸をすれば、肺は新鮮な空気で満たされる。
そこには人間の営みがあり、関わり合いがある。

宇宙の映画を観ていたのに、私は実に地球を感じていた。

邦題は、「ゼログラビティ」だけど、原題は、「グラビティ」。
つまりこの映画を創った人達は、回りまわって「重力」があることの方にフォーカスしている
のではないか。ということは、私が「地球」を感じたのは、彼らの思う壺なのかもしれないね。

例えば、「ゴッホのひまわり」が58億円で落札されたのを知った時、
その数字そのものに驚きながら私は別のことを考えていた。

「本物である」と判断あっての「58億円」。でももしも贋作だったら、
無価値に近い。 58億かゼロか。この決定的な判断につきまとう危うさと
もろさと、人間の思い込みについて考えていたんだ。

昨日、「鑑定士 顔のない依頼人」という映画を劇場で観て来た。
監督は、あの「ニューシネマパラダイス」や「海の上のピアニスト」の、
ジュゼッペ トルナトーレ。

オークションシーンが何度となく銀幕に現れる。
一流の鑑定士であり、またオークショニアでもある主人公ヴァージルオールドマンが、
オークションを仕切る姿は実にきびきびしていて隙がない。
声のトーンや強弱、表情、テンポをうまく操り、美術品の値をあっという間に釣り上げ、
最後にオークションハンマーを小気味よく振り下ろす。

老齢になるまで真から人と交わらず、壁にかけた肖像画から放たれる女性たちの視線のみに心
を開いてきたヴァージルが、初めて一人の生身の女性に心を奪われ、乱され、オークション
でも失態を演じてしまう。機械人形のような完璧なヴァージルが、血の通う人間になった瞬間
でもある。

はじめから終わりまでストーリーの根底にあるのは、本物と偽物。
それは絵画のことだけに限らず、人間の愛情にまで及び、疑問を投げかけていく。

で、ここで私は思うのだ。「価値」とはいったい何なんだろう、と。
壁に飾ってある絵画を心から愛でていたのに、ある日偽物とわかった途端に興味が
消え失せるとすれば、その人はその絵を愛していたのではなく、「本物である」こと「高価
であること」をただ気に入っていたということだ。

ある価値観が世の中の傾向にうまく乗っかっていく。するとあっという間に多くの人々を取り込み、
たくさんの人が「すごいすごい」と騒ぎ出す。

我々の高校時代、「ロックは不良の音楽」と言われていた。
あの頃優等生側にいて白い目を向けていた人達さえも、今になってストーンズのコンサートに
行くのはどうしてなんだろう?

「本物と言われている物」に人々はこだわり、それらとかかわり合おうとする。
でも私は偽物でもいいと思っているんだ。それよりも自分がいいと思うことを大事にしよう
と思って。それがたとえこの世の中で偽物だったとしても、私の世界に入り込むやいなや
「本物」となるのだ。

それとね、もうひとつ思うのは、この愛は本物か偽物か・・と言ってる時点でもう怪しい。
だって「価値」という言葉で測れるようなものじゃないでしょ? 
たぶん「愛」って。






20年前にバレエを習い出したその日から、私の「股関節との戦い」は始まっていた。
身体が固くて股関節の可動域が明らかに狭い私は、とことんバレエに向いていなかっ
たのだ。

それなのに、「足の甲高」を先生に褒められて、いい気になっていた。
その後どれだけ股関節で苦しむことになるのかも知らないで。

それでも20年も続けていれば、人にちょっとは驚かれるくらいの柔軟性は身に
つけられるものだ。それは身を持って言える。

苦労してやっとこさある程度の柔軟性を手に入れた私は、人の動きを見るときに
その人の股関節の可動域にどうしても目が行ってしまう。

そして ある日 ミュージカル「100万回生きたねこ」を観た。

満島ひかりちゃん扮する女の子が、絵本からそのまま出てきてしまったような
女の子だったので、「長靴下のピッピみたい・・」と目を奪われていたら、
何の気配も感じさせずに実は本棚の奥に潜んでいた一匹の猫、森山未來くんが突然
舞台に現れた。

果たして私は、未來君ネコの股関節の柔軟さに釘付けになってしまった。

一方向に極端に体を押し出すことで生じる関節と関節の間のひとつの広がりが、
関節の並び順にスムーズに移動し、上下左右斜めに伝わっていく。

そんな波打つように見えるあのネコ特有の背骨の動きを、猫になった未來くんは
それは自然に動きへと組み込み、加えてしなやかな股関節を存分に使って舞台を這い回る。

ミュージカルを観ているという感覚とは少し違った。
少なくとも私が思うミュージカルとは違った。

例えば、「不思議の国のアリス」の、アリスが経験する夢の世界は、少しばかり狂気を
感じるところが私にはあって、それに似た世界に誘われたような感覚が残っている。

色のコントラスト、日常的ナンセンス、執拗に繰り返される動き、間接的な「涙」の表現。
「泣く」という行為は、何と人間的なものであったのか。

100万回生きても泣いたことのなかったトラねこさんは、愛を知り死の悲しみを知ること
で、さめざめと泣き、自らも死を全うする。

後日、NHKのインタビュー番組に出演していた未來君の話で、疑問のすべてに合点が
いった。

まず未來君はダンサーだった。当然だ。
そして舞台の演出振付美術は日本人ではなく、すべてイスラエルの人達によるものだった。

未來君は、10月から一年間日本での俳優業をお休みして、ベルギーやイスラエルの劇団を
拠点に活動を始めるらしい。

「100万回生きたねこ」を観たからというわけではないけれど、「Woman」も
「夫婦善哉」も録画でなく見ることにしている。














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