日々の生活から気になる事柄やものたちを、日記を通して紹介していくサイトです。水曜日には「やわらかい英文法」と題して、英語に関することを載せています。(平成23年3月現在)
公園の、遊歩道からはずれて、芝生を奥深く歩いて少しすると、私のお気に入りの場所がある。
大きく育った「クヌギ」や「けやき」等の数本の木の横に、表札のように寄り添って、木の紹介をしてくれている場所。
そこにカラフルに書かれている字や絵は、明らかに子供によって書かれた物で、木の説明も着眼点も感想も、とても素朴で、私にはとてもわかりやすいのだ。
木枠に収められてすっかり公園になじんでしまっているその自由研究は、小学生による手書きならではの温かさをまとって今日も大切なご主人様をしっかり守っていた。
「自由研究」って、小学校の頃よくやらされた記憶がある。
自由研究・・と言うと、私の連想ゲームは、「模造紙」。
模造紙って、懐かしい言葉。ずいぶん使ってないと思う。
この単語の響き、小学校の記憶のシーンに導いてくれる魔法の言葉。
放課後、机を後ろに押しやり、床に拡げた真っ白な模造紙に、色とりどりの太マジックで、きゅっきゅいわせて字を並べる。
最初の一文字、緊張して手が震えたりして。
でも 今も昔も大雑把な私は、最初の字を大きくし過ぎて、後半焦って尻つぼみ。
絵がうまい人、羨ましかったなあ。
パソコンでブログ書いてていうのもなんなんですが、やっぱり「直筆」っていい。
それにしても、模造紙に膝ついてお尻をきゅっとあげていた姿勢や マジックの音や 教室の匂いは覚えているのに、肝心の自由研究の中身を覚えていない。
なんでだろう。・・勝手に首がうなずいちゃって、そのあとゆっくり横にふれてしまった。






大きく育った「クヌギ」や「けやき」等の数本の木の横に、表札のように寄り添って、木の紹介をしてくれている場所。
そこにカラフルに書かれている字や絵は、明らかに子供によって書かれた物で、木の説明も着眼点も感想も、とても素朴で、私にはとてもわかりやすいのだ。
木枠に収められてすっかり公園になじんでしまっているその自由研究は、小学生による手書きならではの温かさをまとって今日も大切なご主人様をしっかり守っていた。
「自由研究」って、小学校の頃よくやらされた記憶がある。
自由研究・・と言うと、私の連想ゲームは、「模造紙」。
模造紙って、懐かしい言葉。ずいぶん使ってないと思う。
この単語の響き、小学校の記憶のシーンに導いてくれる魔法の言葉。
放課後、机を後ろに押しやり、床に拡げた真っ白な模造紙に、色とりどりの太マジックで、きゅっきゅいわせて字を並べる。
最初の一文字、緊張して手が震えたりして。
でも 今も昔も大雑把な私は、最初の字を大きくし過ぎて、後半焦って尻つぼみ。
絵がうまい人、羨ましかったなあ。
パソコンでブログ書いてていうのもなんなんですが、やっぱり「直筆」っていい。
それにしても、模造紙に膝ついてお尻をきゅっとあげていた姿勢や マジックの音や 教室の匂いは覚えているのに、肝心の自由研究の中身を覚えていない。
なんでだろう。・・勝手に首がうなずいちゃって、そのあとゆっくり横にふれてしまった。
この時期の私。やって来ちゃったこの季節。たくさんのつぼみが、立て続けに音を立てるように開花中。これ、「アレルギーのつぼみ」・・なんだけどね。
今までさんざん 体力気力の大幅な減少・・だの、だらしない女に成りさがって。もう一体全体・・とか、無能人間の極地だね、まったく・・などと、自分をののしってまいりましたが、今年から、そういうことはきっぱりとやめました。
そういうののしりは、裏返してみれば、自分可愛さのあまりの、単なる言い訳に過ぎないって重々わかってるからです。
「ねえ聞いて。私はこんなはずじゃないの。これは本来の私とは違うの。」と必死に言っているようなもんだもの。なので、そんなことやめたやめた。
手際が悪くて、朝の片付けできぬまま、ごちゃごちゃのキッチンに後ろ髪ひかれながらバレエに出かけたとしても、もうよしとしよう。
ドラックストアーに行って、何の気なしに栄養ドリンク売り場の前に突っ立ち、タウリン1000もしくは2000を通り越して、3000のものを買い求めたとしても、浅はかとは思わない。
キャパを超えてあふれたものは、3日もしくは一週間の中で、なんとか回っているんだったら上等じゃないか。
家事が大嫌いになり、掃除機掛ける回数がぐんと減って、その一方、映画のDVDを観る本数が増えていても、だめ主婦の烙印を、自ら押すことはもうしない。
全部いとしい自分。自分自身が自分の味方でなくてどうしようというのか。
You've got a friend. You've got a friend.
ほんと。ダニーハザウェイのバージョンも、すごくいいね。
今までさんざん 体力気力の大幅な減少・・だの、だらしない女に成りさがって。もう一体全体・・とか、無能人間の極地だね、まったく・・などと、自分をののしってまいりましたが、今年から、そういうことはきっぱりとやめました。
そういうののしりは、裏返してみれば、自分可愛さのあまりの、単なる言い訳に過ぎないって重々わかってるからです。
「ねえ聞いて。私はこんなはずじゃないの。これは本来の私とは違うの。」と必死に言っているようなもんだもの。なので、そんなことやめたやめた。
手際が悪くて、朝の片付けできぬまま、ごちゃごちゃのキッチンに後ろ髪ひかれながらバレエに出かけたとしても、もうよしとしよう。
ドラックストアーに行って、何の気なしに栄養ドリンク売り場の前に突っ立ち、タウリン1000もしくは2000を通り越して、3000のものを買い求めたとしても、浅はかとは思わない。
キャパを超えてあふれたものは、3日もしくは一週間の中で、なんとか回っているんだったら上等じゃないか。
家事が大嫌いになり、掃除機掛ける回数がぐんと減って、その一方、映画のDVDを観る本数が増えていても、だめ主婦の烙印を、自ら押すことはもうしない。
全部いとしい自分。自分自身が自分の味方でなくてどうしようというのか。
You've got a friend. You've got a friend.
ほんと。ダニーハザウェイのバージョンも、すごくいいね。
先週は、to不定詞の名詞用法について書きました。
今週は、to不定詞の形容詞用法について書きますね。
さて次の日本語のフレーズを見てみてください。
おいしい飲み物 やさしい友達 楽しい時間 美しいドレス
何か飲むもの 一緒に遊べる友達 テレビを見る時間、パーティーで着るドレス
これらの日本語のフレーズは、もの、友達、時間、ドレス・・などの名詞が、上の段の赤の表現は形容詞、 下の段の青の表現は 動詞・・(を形容詞的にしたもの)によって修飾されているのを確認してみてください。
上の段は、good drink, a kind friend, enjoyable time, a beautiful dress のように 日本語と同じ語順などで受け入れやすいと思います。
下の段になると、something to drink, a friend to play with, time to watch TV, a dress to wear at party・・・のように、動詞にto をつけることによって形容詞に変身したものが、名詞の後ろに置かれ、その名詞を修飾しているものなのです。
ただその場合、普通の形容詞と違って 名詞の後ろにつくところが厄介なのです。
There are many places to visit in Kyoto.
京都には訪れるところがたくさんあります。
I don't have any money to take a bus.
私はバスに乗るお金がない。
両方とも 青い部分が赤い部分を修飾しているto不定詞の形容詞用法を含んでいる文です。
来週は副詞用法に行きます。
今週は、to不定詞の形容詞用法について書きますね。
さて次の日本語のフレーズを見てみてください。
おいしい飲み物 やさしい友達 楽しい時間 美しいドレス
何か飲むもの 一緒に遊べる友達 テレビを見る時間、パーティーで着るドレス
これらの日本語のフレーズは、もの、友達、時間、ドレス・・などの名詞が、上の段の赤の表現は形容詞、 下の段の青の表現は 動詞・・(を形容詞的にしたもの)によって修飾されているのを確認してみてください。
上の段は、good drink, a kind friend, enjoyable time, a beautiful dress のように 日本語と同じ語順などで受け入れやすいと思います。
下の段になると、something to drink, a friend to play with, time to watch TV, a dress to wear at party・・・のように、動詞にto をつけることによって形容詞に変身したものが、名詞の後ろに置かれ、その名詞を修飾しているものなのです。
ただその場合、普通の形容詞と違って 名詞の後ろにつくところが厄介なのです。
There are many places to visit in Kyoto.
京都には訪れるところがたくさんあります。
I don't have any money to take a bus.
私はバスに乗るお金がない。
両方とも 青い部分が赤い部分を修飾しているto不定詞の形容詞用法を含んでいる文です。
来週は副詞用法に行きます。
手作りのもの・・と言っても今日のようなバレンタインデーにチョコケーキを焼く・・とかじゃなくて、布・糸・針・毛糸の世界から離れてしまってずいぶん年月が経ってしまった。
もちろん今でも、ボタンが取れれば付けるし、トウシューズのリボンやゴムも新しく買い換えるたびに細かく縫い付けたりはしているから、まったく無縁と言うわけではないのだけれど。
思い返せば、ほとんど家の中で過ごしていた子供が2~3才だった頃、私は手芸にはまっていたのだ。
来る日も来る日もパッチワーク用に切った小さなピースをつなぎ合わせ綿入れしておくるみを作ったり、子供の遊び着からお出かけ用のワンピースやスーツ、そして冬用のコートまで裏地をきちんとつけて作ったりしていたのだ。
毎年、秋の季節のフェイドアウトとともに、大型手芸店、ユザワヤに買出しに行き、家族のセーターを次々と編んでいたあの頃。
今考えると信じられない。あれは私がやっていたの?あのときの私は・・誰?
そう思うくらい今は面倒くさくてとてもできる感じがしないのです。
私の編んだものに包まれていた子供達に比べ、現在 ハルは通販で買った980円のニットを着せられている。でもさすがハル。可愛く着こなして似合っていてとても980円には見えないの。
今年のお正月休みに、私と同い年のお人形、「ぱーまちゃん」の洋服があまりに汚く古くなっていたので、はぎれを引っ張り出して、ワンピースを作ってあげた。
ミシン出すの面倒なので、久々に本気で針を持ち、手縫いでちくちく縫い上げた。
ぱーまちゃんのようなお人形を、私は他で見たことがないので、ぱーまちゃんは案外お宝なのかもしれない。私が0歳の時、親が買ってくれたのか、誰かがくださったのか、わからないのだが、でも言えることは、「一生一緒。」
幼少時に娘も息子も喜んで着てくれていた、残り毛糸で編んだ「クマのセーター」は、たまにタペストリー風にインテリアとして飾っている。
編みこみセーターに凝っていた当時、かなり複雑なものもトライして仕上げた力作は、すてられなくて、あんまり着ないのに押入れのスペースで幅をきかせている。
断舎利・・できないのは、こういうことなのかな。
「よし、捨てないなら 着ようじゃないか。」
これを合言葉に、私は古いものにも風を通すべく着て楽しむことに決めたのです。



もちろん今でも、ボタンが取れれば付けるし、トウシューズのリボンやゴムも新しく買い換えるたびに細かく縫い付けたりはしているから、まったく無縁と言うわけではないのだけれど。
思い返せば、ほとんど家の中で過ごしていた子供が2~3才だった頃、私は手芸にはまっていたのだ。
来る日も来る日もパッチワーク用に切った小さなピースをつなぎ合わせ綿入れしておくるみを作ったり、子供の遊び着からお出かけ用のワンピースやスーツ、そして冬用のコートまで裏地をきちんとつけて作ったりしていたのだ。
毎年、秋の季節のフェイドアウトとともに、大型手芸店、ユザワヤに買出しに行き、家族のセーターを次々と編んでいたあの頃。
今考えると信じられない。あれは私がやっていたの?あのときの私は・・誰?
そう思うくらい今は面倒くさくてとてもできる感じがしないのです。
私の編んだものに包まれていた子供達に比べ、現在 ハルは通販で買った980円のニットを着せられている。でもさすがハル。可愛く着こなして似合っていてとても980円には見えないの。
今年のお正月休みに、私と同い年のお人形、「ぱーまちゃん」の洋服があまりに汚く古くなっていたので、はぎれを引っ張り出して、ワンピースを作ってあげた。
ミシン出すの面倒なので、久々に本気で針を持ち、手縫いでちくちく縫い上げた。
ぱーまちゃんのようなお人形を、私は他で見たことがないので、ぱーまちゃんは案外お宝なのかもしれない。私が0歳の時、親が買ってくれたのか、誰かがくださったのか、わからないのだが、でも言えることは、「一生一緒。」
幼少時に娘も息子も喜んで着てくれていた、残り毛糸で編んだ「クマのセーター」は、たまにタペストリー風にインテリアとして飾っている。
編みこみセーターに凝っていた当時、かなり複雑なものもトライして仕上げた力作は、すてられなくて、あんまり着ないのに押入れのスペースで幅をきかせている。
断舎利・・できないのは、こういうことなのかな。
「よし、捨てないなら 着ようじゃないか。」
これを合言葉に、私は古いものにも風を通すべく着て楽しむことに決めたのです。
ひとつの映画を観終わってしみじみ感じた。「世の中の、善良な市民である」人の一生は、日常を積み重ねた末、何事もなかったように終わるんだなって。
以前DVDレンタルでいつか借りようと思っていた「歩いても 歩いても」が、テレビで放映されていた。
徹底されていたのは、最初から最後まで 物事や登場人物を取り立てて、ドラマチックにしたり美化したりということが、毛嫌いするように排除されていたことだ。
つまり最初から最後まで何か大きな盛り上がりがあるわけでもなく、家族間のやりとりが坦々と織り込まれていく。
長年していた開業医を引退した後、どこか身の置き所がなく、どうかすると診察室にこもってしまう父。
明るくてきぱきと毎日働きながら、過去の悲しみや怒りが どこかでふつふつ鳴っているのを敢えて聞きながら生活しているような母。
溺れている子供を、自分の命とひきかえに助けた長男の命日に、このふたりの元に、娘夫婦と息子夫婦が子連れで戻ってくる。
実家を二世帯住宅に建て替えて住み込もうと、台所仕事をしながら母親を説得にかかるようなちゃっかりとしたところがありつつも、あたりさわりなくお茶目に人との距離をとれる長女。そしてその夫。
跡取りになるはずだった長男に、どこか引け目を感じながら、その長男に思い入れていたかたくなな父に、反発して生きてきた次男。
夫を失い、息子を連れて再婚した次男の嫁。そして孫達。
血縁関係であるからこその葛藤や我慢から時折言い合ったり、血縁関係であるからこその共感と愛情があったり、登場人物の吐く言葉は、実に現実的だった。
ラストシーンは、娘が一人増えた次男家族が、父母のお墓参りをする場面となっている。さっきまで子供達夫婦を見送り、歩いていた老夫婦が、次の場面ではお墓に入っている。時間的な経過が映画的にはもちろんあるのだろうが、人生ってこんな感じに終わるのだなとしみじみ感じたのだ。
タイトルの「歩いても 歩いても」は、ブルーライト横浜の歌詞だった。
浮気をしている夫の鼻歌、「ブルーライト横浜」のレコードを、突き止めた浮気現場からの帰り道に買い求め、聴いていた母親。
今、同じお墓に入り、すべての出来事は、風化の一途をだとるのだろう。
以前DVDレンタルでいつか借りようと思っていた「歩いても 歩いても」が、テレビで放映されていた。
徹底されていたのは、最初から最後まで 物事や登場人物を取り立てて、ドラマチックにしたり美化したりということが、毛嫌いするように排除されていたことだ。
つまり最初から最後まで何か大きな盛り上がりがあるわけでもなく、家族間のやりとりが坦々と織り込まれていく。
長年していた開業医を引退した後、どこか身の置き所がなく、どうかすると診察室にこもってしまう父。
明るくてきぱきと毎日働きながら、過去の悲しみや怒りが どこかでふつふつ鳴っているのを敢えて聞きながら生活しているような母。
溺れている子供を、自分の命とひきかえに助けた長男の命日に、このふたりの元に、娘夫婦と息子夫婦が子連れで戻ってくる。
実家を二世帯住宅に建て替えて住み込もうと、台所仕事をしながら母親を説得にかかるようなちゃっかりとしたところがありつつも、あたりさわりなくお茶目に人との距離をとれる長女。そしてその夫。
跡取りになるはずだった長男に、どこか引け目を感じながら、その長男に思い入れていたかたくなな父に、反発して生きてきた次男。
夫を失い、息子を連れて再婚した次男の嫁。そして孫達。
血縁関係であるからこその葛藤や我慢から時折言い合ったり、血縁関係であるからこその共感と愛情があったり、登場人物の吐く言葉は、実に現実的だった。
ラストシーンは、娘が一人増えた次男家族が、父母のお墓参りをする場面となっている。さっきまで子供達夫婦を見送り、歩いていた老夫婦が、次の場面ではお墓に入っている。時間的な経過が映画的にはもちろんあるのだろうが、人生ってこんな感じに終わるのだなとしみじみ感じたのだ。
タイトルの「歩いても 歩いても」は、ブルーライト横浜の歌詞だった。
浮気をしている夫の鼻歌、「ブルーライト横浜」のレコードを、突き止めた浮気現場からの帰り道に買い求め、聴いていた母親。
今、同じお墓に入り、すべての出来事は、風化の一途をだとるのだろう。
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