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日々の生活から気になる事柄やものたちを、日記を通して紹介していくサイトです。水曜日には「やわらかい英文法」と題して、英語に関することを載せています。(平成23年3月現在)
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たんこぶ ができている。
たんこぶ って頭にできたもの以外でも、そう言うの?

私にとっての たんこぶ は 頭を打って盛り上がる あれ である。

スポーツクラブで、ロッカーの小さな扉を開けたまま、しゃがんで靴下をはく。
お風呂上りの湿り気のある肌は、靴下をはくという簡単な動作にも集中力を必要とさせる。

よしできた。と思い切り起き上がる。 そのとたん、ズゴーン と重鈍い音がしたと思ったら、頭頂部からちょい右にずれたところに激痛が走った。

「だ、大丈夫ですか?」と声をかけてくださったご婦人のほうに視線を移すと、数人の別の方々も心配そうにこっちを見ている。

 「すいません。大丈夫です。おっちょこちょいなもんで・・。」

またやっちゃった。 これで3回目だ。
自分の中の「ガサツ」 がとてもフィーチャーされた一日であった。 
こんな日は、歩いていても がちゃがちゃ感が抜けない。

自己弁護させてもらっとこう。バレエだってやってるんだし、自分の中の 「優雅さ」がフィーチャーされる日だって、ごくたまにだけど あるのよ。

昨日久しぶりに本を読んだ。
大野更紗さん の 「困ってるひと」だ。

大学院在学中に、自己免疫疾患系の難病を発病した更紗さんが、生きるのに困難な状況に陥って、エキストリームな弱者、困った人に突然、なる。

行動力、集中力、自己実現力に人一倍恵まれ、これまでわが心の思うまま人生を開拓してきた更紗さんが、突然弱者になってしまう。

壮絶な闘病中、死と隣り合わせの絶望を最後の切り札に、これでもか という勢いでふりかかる困ったことに、クールに視点を合わせていく。

彼女の闘病の様子は、彼女独特の、自分を突き放して見えてくる滑稽さを通して 緻密な筆力で語られるので、この世のものとは思えないほど壮絶な経験をしている彼女を、一度たりとも かわいそう とか 気の毒だ とか 私に思わせない迫力があった。

それどころか、私は 彼女の文章に元気にしてもらったのだ。

彼女がこれだけの苦しみを経験して新たに獲得した視点は、すでに彼女が持っていた並外れた能力をバランスよく立体化し、さまざまな矛盾を私たちの前で明らかにしてくれる。

彼女の頑張りと鋭い分析力に大いに敬服しながら、私が一番感動したのは、更紗さんの恋の相手、やはり難病をかかえる「あの人」が、自分の体力の限界をものともせず、更紗さんのために効率的に賢く動き、そのあとにぽっそりと「役にたててうれしかった。」・・というところ。

誰かのために何かができる というのは、忘れていたけれど とても幸せなことだったんだね。











 自信のないことは数あれど、母親業ほど苦手なものはないかもしれない。

 人がイメージして、ぽわんと心温かくなるような、そんな母親になりたいとあこがれてもいたのに、実際はそんな甘いものではなかった。

 押し寄せる時代の波に、昭和生まれの愚かな母親は、日常に消耗されながらも、大切だと思えるものを、子育ての中でもヒステリックに護ろうとした。

度が過ぎれば押し付け以外の何物でもなくなる。と言うことに気づかずに。

 青空の下でたくさん遊んでほしくて、なかなかゲームを買ってあげなかった。
クラスメイトの8割がゲームに熱中していたのに。

子供の健康に神経質になるあまり、食物の購入 栄養にも気を配った。
スナックのかわりに、味気ない添加物フリーのお菓子やさつまいものふかしたものなどをおやつの時間に与えた。 

でも、刺激は外の生活から染みこんできて、あっという間に彼らはより強い刺激を
味わい知り、それらに毒されてしまった(その当時はそう思っていたの)。

それまで制限していた分、その振り子はより大きく逆側にふれたのかもしれない。

 自分自身のことでも、子供べったりになって、子供が巣立っていったときに空の巣シンドロームに陥るのが怖くて、自分を失わないようにしなくちゃ・・とあせってもいた。

 でも今になって思うのだ。もっとべったりすればよかったな、と。
もっとすべてのことに、おおらかでよかったんだ。

生まれたときから一緒に暮らしていた子供たち。 その彼らの巣立ちに寂しさを感じるのは、自然なことであるはずだから。通るべき道だったのだ。

 成人した娘や息子に対して、今でも悩むことがある。

「どこまで手を貸せばいいのか。」

これは私にとって、永遠の謎である。

自分がやってあげちゃえば、物事は早い。という場面に出くわすことはよくあることで。でも社会人として自分で片をつけるべき、とあえてほったらかしてみる。

 たとえば娘の通信販売の支払いが遅れて、販売先から何度か電話をもらうとする。
私が代わりに払いに行ってあげれば早いのに、こういうことは責任もってやって欲しい。そう思って「他人に迷惑かけるな。」と言い放って待つ。 そう、母親は待つのだ。ほったらかしにできないのが実に悲しいさが。
心をすり減らしながら待つのだ。

それを知ってか知らずか、仕事の忙しさにかまけて、未払いのまま時は過ぎ、消耗していくのは愚かな母親である私だけ。

こんなこと、してあげちゃえばいいのか?
悪いのか? 

 自信のない母親は、情けなさにしょんぼりとして、ひとまわり小さくなる。


 話は変わって 紅葉が美しくなってきましたね。
うちのマンションの前もずいぶんカラフルになってきました。




あと中央公園に行ったときの紅葉写真を載せておきます。








 
ごそごそとお散歩用トートバックをかき回していたら、まあるくて硬くて平べったい物に指が触れた。

 顔面に、カーッと血流が増えるのを感じながら、すばやく取り出すと、失くしてしまって二度と会えないと思っていた「カメラキャップ」が姿を現してくれた。

 部屋のどこかに置いたと思っていたのは間違いで、お散歩帰りのバックから使うためにカメラを取り出した時、無意識にバックの中に入れてしまったのだ。

 キャップひとつのことなのに、私はとても明るくなった。
裏を返せば、キャップひとつで私はどこか暗かったのだ。

 代わりを注文してみたものの、まったく同じものは手に入らないとわかり、2~3日したら届く「でこぼこの豚の鼻」みたいなので我慢していかなきゃならないと、あきらめていたんだ。

 そんな感じで、幾分どんよりしながらクリスマスツリーを出した。
うっかり出し忘れていたら、「今年はまだツリーが出てないんだね。いつもならもう出てる頃なのに。」とダンナと娘でコソコソ話していたらしい。 そんなに興味があるようにずっと見えなかったので、その反応は意外だった。

 毎年、毎月、毎日と、繰り返される行いは、長い時間と混ざり合って すり込まれていくものなのね。 子供が生まれてから今までの23年間、23回目のツリーです。















 

 
フタをなくした保存ビンは、素っ気無い入れ物に成り下がる。

圧力鍋もおもりがなければ、図体のでかい、ただの鍋でしかない。

 不注意な私が、がちゃがちゃと生活し始めると、何かを取りこぼしたり 何かが何かに紛れ込んだり 生活全体が混乱する確率が、一気に上昇する。

 ある物全体のごく一部でありながら、その小さな部分がそのものの存在の要である・・そういう小さな物たちがどこかに紛れて姿を消してしまうので、私はとても困るのだ。

 大事なカメラのレンズキャップがみあたらない。
2~3日前に、タルトタタンの写真を撮った時にはずしてどこかに置いたはずなのだから、絶対家の中にあるはずなのに、いくら探してもかくれんぼから出てきてくれない。

 おもりを無くした圧力鍋は、玄米を炊く能力を失い、実力を出す場を奪われて、うなだれている。しょうがなく ひとまわり小さい圧力鍋を生協で購入した。

 自分の非を棚にあげ、こんなに物がなくなるなんて、それはたぶん家のどこかに小さな隙間があって、そこに誘われた私の物達がスルリとそこに落ちて、別世界に行ってしまったのではないかと本気で思うのである。

 探しても見つからなかったものたちに、もしももう一度会えるなら、たとえ交通の便が悪かろうが、時間がかかろうが、私はその再会の旅に喜んで出かけるだろう。

 目の前にありながら 壊れ行くものもある。
長年使っていた、お気に入りの 陶器の冬鍋がそろそろ危うい。
これも 他ならぬ ふた が危ういのだ。

 買ったばかりの時に、不注意でまっぷたつに割ってしまったフタを、瀬戸物用のボンドでくっつけて何年も使ってきた。

 二人と一匹の生活も間近である今、少し小ぶりの鍋に買い換えようかと思っている。

 ふた と おもり は、大切です。

















 



 



 



 どちらも車の中で信号待ちをしている時だった。

目前で、一秒前にこの世に存在していた命が、一秒後には絶たれていた。

 数年前にはお年を召したご婦人が、そして、数日前には小さなかわいい黒猫ちゃんが、それぞれ不注意な対向車と、そしてバイクの犠牲となったのを目撃してしまった。

 ところが、あれだけショックを受けた数年前の事故を、今ではほとんど思い出さなくなってしまっている。時々現場を通るときに身を引き締めるくらいの程度に、もはやなってしまったのだ。

 数日前の黒猫ちゃんの事故の直後、駐車場の車中で、さんざんぱら泣いて、その日は一日中、思い出してはじめじめと泣いていたのに、今ではひとつの出来事として片付けようとしている自分がいる。

 出来事そのものが、日々とともに薄れていくのは、ありがたいことでもあるのだが、その反面 忘れてはいけないんじゃないかという思いもあり、「覚えていて思い出すんだ」と自分に言い聞かせたりもしてみる。

 不思議なことに、出来事そのものは、そのように意識的に喚起する必要があるわけなのに、そのとき自分が心にずっしり感じたことは、流れる時間とは無関係に、逆に研ぎ澄まされていく。

 当たり前の日常が、一瞬で消え去るという無常観。

他の死にささえられて成り立つ、自分の生 というもの。

手のひらを合わせたときの 両手のぬくもり。

猫ちゃんの分も、ハルをかわいがるんだ。という稚拙な思い。

心で口ずさんだ鎮魂歌。

すべては、自分の血となり肉となり、私の中で生き続けていく。

 



 
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