日々の生活から気になる事柄やものたちを、日記を通して紹介していくサイトです。水曜日には「やわらかい英文法」と題して、英語に関することを載せています。(平成23年3月現在)
スーパーのレジの順番待ちで、脇にある棚の商品に手を伸ばし つい買い物かごにいれてしまう。 これはスーパー側の作戦にまんまとひっかかっているようなものだ。
こうして私は、何十年ぶりにかビスコを買うことになった。
ビスコ。何という懐かしい響きだろう。
小学校の遠足のおやつに、お楽しみ会やお祭りのお菓子セットの中に、あたりまえの顔をして存在していた気がする。
当時は、クリームサンドビスケットの一種類。それが今ではキャラメル味だのチョコ味だのバリエーションは豊富らしい。
ミニパック三個百円の組み合わせに定番以外のものも入れてはみたが、やはりクリームサンドが私にとってはビスコなのだ。
小さなハーモニカのように律儀な長四角の表面には、フォークをちょんちょんと遠慮がちに突き刺したような穴が並んでいる。
赤ちゃん用ビスケットに似た白っぽいビスケット二枚の間に、真っ白のクリームがちらりと顔をのぞかせている。
ちょっぴり粉っぽいビスケットと何の駆け引きもないクリームとのコンビネーション。贅沢なバターの香りはどこ吹く風 の、素朴な昭和の味なのである。
ところで、ビスコのトレードマークとも言える可愛い坊やの顔写真はずっと変わっていないのだろうか? 今の坊やは完璧くっきり二重であごが細く、前髪はシャギーの様相を呈している。
記憶はまったく定かではないのだが、私が子供の頃のビスコ坊やは、もっと昭和の顔をしていた気がする。
「おいしくてつよくなる」という何のひねりもないコピーは、複雑な現代においてとても直接的でかえってインパクトが強い。
あらゆるものが刹那的に存在しては消えていく傾向の中、ビスコとかカールとかがスーパーのお菓子の棚に いつの時でもあってくれるのは嬉しいことだ。
匂いや味は記憶と結びつき、普段は奥底に静かに眠っている私の子供時代の断片を拾い集めてくれる。
飽食の時代である今、すでに大人の部類に属する娘や息子が、私の作るホットケーキに喜びの声をあげるのを、そう思うと納得がいく。
こうして私は、何十年ぶりにかビスコを買うことになった。
ビスコ。何という懐かしい響きだろう。
小学校の遠足のおやつに、お楽しみ会やお祭りのお菓子セットの中に、あたりまえの顔をして存在していた気がする。
当時は、クリームサンドビスケットの一種類。それが今ではキャラメル味だのチョコ味だのバリエーションは豊富らしい。
ミニパック三個百円の組み合わせに定番以外のものも入れてはみたが、やはりクリームサンドが私にとってはビスコなのだ。
小さなハーモニカのように律儀な長四角の表面には、フォークをちょんちょんと遠慮がちに突き刺したような穴が並んでいる。
赤ちゃん用ビスケットに似た白っぽいビスケット二枚の間に、真っ白のクリームがちらりと顔をのぞかせている。
ちょっぴり粉っぽいビスケットと何の駆け引きもないクリームとのコンビネーション。贅沢なバターの香りはどこ吹く風 の、素朴な昭和の味なのである。
ところで、ビスコのトレードマークとも言える可愛い坊やの顔写真はずっと変わっていないのだろうか? 今の坊やは完璧くっきり二重であごが細く、前髪はシャギーの様相を呈している。
記憶はまったく定かではないのだが、私が子供の頃のビスコ坊やは、もっと昭和の顔をしていた気がする。
「おいしくてつよくなる」という何のひねりもないコピーは、複雑な現代においてとても直接的でかえってインパクトが強い。
あらゆるものが刹那的に存在しては消えていく傾向の中、ビスコとかカールとかがスーパーのお菓子の棚に いつの時でもあってくれるのは嬉しいことだ。
匂いや味は記憶と結びつき、普段は奥底に静かに眠っている私の子供時代の断片を拾い集めてくれる。
飽食の時代である今、すでに大人の部類に属する娘や息子が、私の作るホットケーキに喜びの声をあげるのを、そう思うと納得がいく。
ここの場所では、「英語教師」という私の分身はなかなか登場しづらい。
英語を教えていると言っても、私自身まだまだ勉強中であり、上から目線ではけっしてものを言えないことは自分が一番承知しているからだ。
でも せっかくずっとやってきたことなので、お勉強とはちがった角度から いいなと思う英文を紹介していこうかなと思うのです。
そして今日の表現は
I would describe myself as a private person.
この場合の private は、「人とかかわらない」「静かな」という意味で、日本語でのプライベートとはちょっと違った風に使われている。
「ま、言ってみれば私はひとりが好きかな。」という意味。
ここで使われている動詞、describeは、asという前置詞と結構仲良しで、
「describe A as B 」で 「AをBとしてあらわす」 とか 「AをBと説明する」というもの。
社交的とか外交的としたいなら、「outgoing」を private の代わりに入れればOK。
ところで 自分は外交的か内向的かと聞かれれば、まわりの印象とは大きく違って実に a private person なのです。
家に閉じこもりがちになるのを いろんなことやって無理に外に出ていると言う感じ。
であるからこそ、外で得られた人とのつながりを より大切にしていきたいと感じる今日この頃です。
英語を教えていると言っても、私自身まだまだ勉強中であり、上から目線ではけっしてものを言えないことは自分が一番承知しているからだ。
でも せっかくずっとやってきたことなので、お勉強とはちがった角度から いいなと思う英文を紹介していこうかなと思うのです。
そして今日の表現は
I would describe myself as a private person.
この場合の private は、「人とかかわらない」「静かな」という意味で、日本語でのプライベートとはちょっと違った風に使われている。
「ま、言ってみれば私はひとりが好きかな。」という意味。
ここで使われている動詞、describeは、asという前置詞と結構仲良しで、
「describe A as B 」で 「AをBとしてあらわす」 とか 「AをBと説明する」というもの。
社交的とか外交的としたいなら、「outgoing」を private の代わりに入れればOK。
ところで 自分は外交的か内向的かと聞かれれば、まわりの印象とは大きく違って実に a private person なのです。
家に閉じこもりがちになるのを いろんなことやって無理に外に出ていると言う感じ。
であるからこそ、外で得られた人とのつながりを より大切にしていきたいと感じる今日この頃です。
お行儀悪くあぐらをかいて座っている私。
と、ハルはどこからともなくやって来て、足のわっかにすっぽり収まりその身をゆだねる。
ソファーに寝転がっている時には膝の上がベッドに、手を伸ばせば腕があご載せ用の枕に早代わり。実は私は、ハルが私の体をそうやって使ってくれることが、すごく嬉しい。
ハルの重さは愛の重さだ。 体だけでなく心のツボにやんわりと効いてくる。
犬を飼いたいと思い始めていた4年前、本屋さんをぶらぶらしてたら、ある本に目がとまった。 拉致被害者の蓮池薫さんが翻訳した、「ハル 哲学する犬」という本だ。その場でぱらぱらとページをめくり、挿絵のあまりの可愛さに衝動買いをした。
先日、その訳者である蓮池さんがゲストの回の、「百年インタビュー」をテレビで見ることができた。蓮池さんがインタビューに答えている部屋の背景に、何冊かの自身の訳書が置かれていた。
その中に、本の装丁としてはめずらしい黄緑色の本があることにすぐに気づき、なんだか嬉しくなった。
「絆」と「希望」とは、蓮池さんがインタビューの中で何度か繰り返されていた言葉だ。蓮池さんによって発せられるそれらの言葉は、より重みと深みを増して私のもとに届いた。
「ハル 哲学する犬」の中に心に残るものがある。
もしも あなたと私、おんなじ星をみていたら、あの星で会っていることになるんじゃないのかな? というような詩。手をのばすのではなく、心を伸ばしてみよう。と詩は続く。
同じ時代に生きている今、あなたの言うとおり、あなたの歌の中にあるように、そうやって私は空を眺めようと思う。
「はりねずみの愛情」というのも好きです。
あなたに痛みを与えないように距離をおいて見守る、はりねずみの愛情。
「雨音」では・・・振る雨が、落ちる場所によってその音色や響きが変わるように、人が誰かと出会うとき 自分の音色は相手によって違うものになる・・・というような詩。誰かと会うとき、いったい自分はどんな音をだしているのだろう。と結ばれる。
ハル は、韓国語で 「一日」という意味だそうだ。
小さな尊い命である私の愛犬に、一日一日を、一緒に大事に生きていこうね。 という思いで、 「ハル」と名づけた。
と、ハルはどこからともなくやって来て、足のわっかにすっぽり収まりその身をゆだねる。
ソファーに寝転がっている時には膝の上がベッドに、手を伸ばせば腕があご載せ用の枕に早代わり。実は私は、ハルが私の体をそうやって使ってくれることが、すごく嬉しい。
ハルの重さは愛の重さだ。 体だけでなく心のツボにやんわりと効いてくる。
犬を飼いたいと思い始めていた4年前、本屋さんをぶらぶらしてたら、ある本に目がとまった。 拉致被害者の蓮池薫さんが翻訳した、「ハル 哲学する犬」という本だ。その場でぱらぱらとページをめくり、挿絵のあまりの可愛さに衝動買いをした。
先日、その訳者である蓮池さんがゲストの回の、「百年インタビュー」をテレビで見ることができた。蓮池さんがインタビューに答えている部屋の背景に、何冊かの自身の訳書が置かれていた。
その中に、本の装丁としてはめずらしい黄緑色の本があることにすぐに気づき、なんだか嬉しくなった。
「絆」と「希望」とは、蓮池さんがインタビューの中で何度か繰り返されていた言葉だ。蓮池さんによって発せられるそれらの言葉は、より重みと深みを増して私のもとに届いた。
「ハル 哲学する犬」の中に心に残るものがある。
もしも あなたと私、おんなじ星をみていたら、あの星で会っていることになるんじゃないのかな? というような詩。手をのばすのではなく、心を伸ばしてみよう。と詩は続く。
同じ時代に生きている今、あなたの言うとおり、あなたの歌の中にあるように、そうやって私は空を眺めようと思う。
「はりねずみの愛情」というのも好きです。
あなたに痛みを与えないように距離をおいて見守る、はりねずみの愛情。
「雨音」では・・・振る雨が、落ちる場所によってその音色や響きが変わるように、人が誰かと出会うとき 自分の音色は相手によって違うものになる・・・というような詩。誰かと会うとき、いったい自分はどんな音をだしているのだろう。と結ばれる。
ハル は、韓国語で 「一日」という意味だそうだ。
小さな尊い命である私の愛犬に、一日一日を、一緒に大事に生きていこうね。 という思いで、 「ハル」と名づけた。
3月3日の午前中に、ばたばたとお雛様をだしているお母さんはそうそういないだろう。 それが、ま、私です。
去年おととしは、ぎりぎりになって お内裏様とお雛様だけをクローゼットから引き出し、チューナーの上に飾った。 桃のお飾りに屏風、そして台も小物も省略されて 着の身着のままという感じに、おふたりはとても居心地悪かったに違いない。
今年は、当日 という間に合わせのようではあったけど、ひとつひとつ丁寧に磨きながら あるものはすべて飾った。悲しいことに、お雛様のお扇子がおととしあたりから見当たらない。
来年は余裕を持って、どこかに買いに行こうと思う。でもお扇子だけって売ってくれるのかしら?



上品なお顔のお二人が、娘の初節句に我が家の仲間入りをしてから すでに21回目の顔合わせです。光陰矢の如し。とはよく言ったもんだ。
女の子なのに髪の毛がなかなか生えそろわないことを心配していたあの頃が懐かしい。
その娘は今や大学3年生。就職難の今、就職活動中です。
毎日気がつくと、私の頃にはなかったエントリーシートに没頭している娘。
いつものんびりしている彼女が、危機感を感じながら真剣に取り組んでいるようだ。
おひな祭りを祝ってあげられるのも、もうそんなにないだろうな。と思い、鮭のちらし寿司と甘夏ケーキを作りました。


去年おととしは、ぎりぎりになって お内裏様とお雛様だけをクローゼットから引き出し、チューナーの上に飾った。 桃のお飾りに屏風、そして台も小物も省略されて 着の身着のままという感じに、おふたりはとても居心地悪かったに違いない。
今年は、当日 という間に合わせのようではあったけど、ひとつひとつ丁寧に磨きながら あるものはすべて飾った。悲しいことに、お雛様のお扇子がおととしあたりから見当たらない。
来年は余裕を持って、どこかに買いに行こうと思う。でもお扇子だけって売ってくれるのかしら?
上品なお顔のお二人が、娘の初節句に我が家の仲間入りをしてから すでに21回目の顔合わせです。光陰矢の如し。とはよく言ったもんだ。
女の子なのに髪の毛がなかなか生えそろわないことを心配していたあの頃が懐かしい。
その娘は今や大学3年生。就職難の今、就職活動中です。
毎日気がつくと、私の頃にはなかったエントリーシートに没頭している娘。
いつものんびりしている彼女が、危機感を感じながら真剣に取り組んでいるようだ。
おひな祭りを祝ってあげられるのも、もうそんなにないだろうな。と思い、鮭のちらし寿司と甘夏ケーキを作りました。
ずっと観たかった映画の最終日にぎりぎり間に合った。
昨日、ペネロペクルス主演 ペドロアルモドバル監督の 「抱擁のかけら」を観に行くことを選択し、バレエのお稽古を休んで、ららぽーと横浜の東宝シネマに行ってきた。
でも実際のところ間に合ってはいなかったんだ。
一度観ただけでは味わいつくせないとても濃い映画で、できることならもう2,3度観たいと切に思ったからだ。
赤をアクセントにした鮮やかな色の洪水、美しい風景、ペネロペクルスの妖艶で大胆かつ愛らしい表情。交錯する人間図。それぞれの登場人物が抱く愛憎、嫉妬、執着、忍耐、諦観、絶望、希望が渦巻き、観てる側の私はショート寸前。
それらのすべてが引きちぎられた写真の一片一片のようであり、その一片一片が時間という試練に耐え、時間という洗礼を受けて、あるべき場所へいざなわれ、収斂されるのだ。
ペネロペクルス演じるレナと映画監督マテオの燃え盛る炎のような恋は、事実上 炎に包まれるような終わり方をする。
その激しさ故にそちらに引きつけられる一方、静かに密かにくすぶり続けるマテオとそのマネージャー ジュディットの関係、ジュディットの彼への静かな想いに私は心惹かれた。
奔放に女性と関係を持ち恋に落ちるマテオに、そして悲しい事件の後に、事件前の自分を封印するかのごとく名前を変えてしまったマテオ改め ハリーに、いつのときでも ジュディットの視線がある。
彼女の中に封印していたものは、事件の全容だけでなく、彼女の抑えきれない嫉妬とねたみだったのではないかと思えてならない。
私の一番好きなシーンは、そのジュディットが事件で視力を失ってしまったマテオの腕をとり階段を下りる場面。
長年連れ添った夫婦のように自然なのだ。
あー、もう一度観たい。六本木や新宿ならやってるけどちょっと無理だと思うし。
あとはDVDが出るのを待つしかないかな。
それにしても私はペドロアルモドバルの映画が好きだ。
もう一度「All about my mother」を借りてきて観ようっと。
昨日、ペネロペクルス主演 ペドロアルモドバル監督の 「抱擁のかけら」を観に行くことを選択し、バレエのお稽古を休んで、ららぽーと横浜の東宝シネマに行ってきた。
でも実際のところ間に合ってはいなかったんだ。
一度観ただけでは味わいつくせないとても濃い映画で、できることならもう2,3度観たいと切に思ったからだ。
赤をアクセントにした鮮やかな色の洪水、美しい風景、ペネロペクルスの妖艶で大胆かつ愛らしい表情。交錯する人間図。それぞれの登場人物が抱く愛憎、嫉妬、執着、忍耐、諦観、絶望、希望が渦巻き、観てる側の私はショート寸前。
それらのすべてが引きちぎられた写真の一片一片のようであり、その一片一片が時間という試練に耐え、時間という洗礼を受けて、あるべき場所へいざなわれ、収斂されるのだ。
ペネロペクルス演じるレナと映画監督マテオの燃え盛る炎のような恋は、事実上 炎に包まれるような終わり方をする。
その激しさ故にそちらに引きつけられる一方、静かに密かにくすぶり続けるマテオとそのマネージャー ジュディットの関係、ジュディットの彼への静かな想いに私は心惹かれた。
奔放に女性と関係を持ち恋に落ちるマテオに、そして悲しい事件の後に、事件前の自分を封印するかのごとく名前を変えてしまったマテオ改め ハリーに、いつのときでも ジュディットの視線がある。
彼女の中に封印していたものは、事件の全容だけでなく、彼女の抑えきれない嫉妬とねたみだったのではないかと思えてならない。
私の一番好きなシーンは、そのジュディットが事件で視力を失ってしまったマテオの腕をとり階段を下りる場面。
長年連れ添った夫婦のように自然なのだ。
あー、もう一度観たい。六本木や新宿ならやってるけどちょっと無理だと思うし。
あとはDVDが出るのを待つしかないかな。
それにしても私はペドロアルモドバルの映画が好きだ。
もう一度「All about my mother」を借りてきて観ようっと。
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