日々の生活から気になる事柄やものたちを、日記を通して紹介していくサイトです。水曜日には「やわらかい英文法」と題して、英語に関することを載せています。(平成23年3月現在)
例えば、大好きだった映画監督が、まったく今までと違ったものを撮りだしたら、
こちらとしては二通りの反応がある。そうかそんな所に行ってくれたのか・・と、
いったいどうしちゃったんだろう・・。
これはごく個人的な感想なのだけれど、私はあの「チャン・イーモウ」監督に対して、
後者の気持ちをしばらく抱いていた。
最近の新聞広告で、チャン・イーモウの新作映画が紹介されているのを見てドキドキした。
タイトル、「妻への家路」。主演女優、「コン・リー」。
あのチャン・イーモウが戻ってきたのかもしれない。
近くのモールで一週間だけ上映されるのを知り、昨日早速観てきた。
とても美しい映画だった。
時は中国文化大革命、インテリ層が強制労働に追いやられていた時代。
家族は引き裂かれ、いつになるともわからない夫や子供の帰りを待って暮らす残された女達。
時は残酷にも10年、20年という時間を、淡々と刻んで行く。
文化大革命の終結で、囚われの身であった者たちが解放される。
到着する電車を待つ人の波。家族の名前を書いたプラカードを掲げている人もいる。
電車から降りてくる人々。顔。また顔。ひとつひとつ確かめ、探し合う。
20年もの空間を一気に縮めて家族が手を取り合い、再会を喜ぶ。
ひとつの家族の再会は、そのように理想的には行かなかった。
妻であるワンイーが、心の病から部分的に記憶喪失になってしまったからだ。
帰って来た夫を見ても、夫であると認識できない。「夫を待っている自分」というのが、
彼女のアイデンティティの殆どであるはずなのに。
夫のイェンシーは、彼女に自分を思い出してもらおうと様々なことを試みる。
でもまったくうまく行かない。
強制労働先で、妻に宛てて書くだけで出せなかった手紙の束を妻に渡す。
今だに自分を夫と認識できない妻に、「手紙を読んであげる優しい友人」として毎日
妻のもとに通うようになる。このあたりから、私は夫イェンシーの覚悟を感じるのだ。
手紙の中のイェンシーを懐かしみ、恋焦がれる妻。手紙の内容を聞きながら、遠い目をして
幸せそうに聞いている。
実はその手紙を目の前で読んでいる男こそが、他ならぬ自分の夫イェンシーであると気づけずに。
イェンシーは、その時、自分を分断したのだと思う。
手紙を書いた自分、手紙の中の自分、妻の中に住む自分を手放し、独立させて、妻と一緒に
彼らを追いかけ愛そうと思ったに違いない。
認知症の母が生きていた頃、彼女は私によく言ったものだ。「家の子供たちはまだ小さくて
ね、今二階で賑やかに遊んでいると思うわ。あなたのお子さんも小さいの?」
最初のうち、私は悲しくて、「ねー、そのちっちゃい子が大きくなってこの私になったのよ。
そして子供も生んだのね。だから孫なのよ。」などと言い、なんとかわかってもらおうと思った
けれど、母は、毎回「えーっ、そうだったの?」とびっくりしては、次また同じことの繰り返しで、私はとうとうその「小さな私」の存在を、母と一緒に愛してあげようと思い始めたの。
それはそれは不思議な感覚だった。
母の中の「小さな私」を認めることで、私は母が亡くなるまで、寄り添うことができた気が
するの。
5日になると夫が帰ってくる。そう思っている妻ワンイーと一緒に、駅へのお迎えにお供する
イェンシー。
つまり毎月5日になると、イェンシーは自分を迎えに行くのだ。
私は思うのだ。イェンシーは、本当に待ち焦がれているのではないかと。
駅から降りてきた人ごみの中に、自分自身を見つけるその日を。
こちらとしては二通りの反応がある。そうかそんな所に行ってくれたのか・・と、
いったいどうしちゃったんだろう・・。
これはごく個人的な感想なのだけれど、私はあの「チャン・イーモウ」監督に対して、
後者の気持ちをしばらく抱いていた。
最近の新聞広告で、チャン・イーモウの新作映画が紹介されているのを見てドキドキした。
タイトル、「妻への家路」。主演女優、「コン・リー」。
あのチャン・イーモウが戻ってきたのかもしれない。
近くのモールで一週間だけ上映されるのを知り、昨日早速観てきた。
とても美しい映画だった。
時は中国文化大革命、インテリ層が強制労働に追いやられていた時代。
家族は引き裂かれ、いつになるともわからない夫や子供の帰りを待って暮らす残された女達。
時は残酷にも10年、20年という時間を、淡々と刻んで行く。
文化大革命の終結で、囚われの身であった者たちが解放される。
到着する電車を待つ人の波。家族の名前を書いたプラカードを掲げている人もいる。
電車から降りてくる人々。顔。また顔。ひとつひとつ確かめ、探し合う。
20年もの空間を一気に縮めて家族が手を取り合い、再会を喜ぶ。
ひとつの家族の再会は、そのように理想的には行かなかった。
妻であるワンイーが、心の病から部分的に記憶喪失になってしまったからだ。
帰って来た夫を見ても、夫であると認識できない。「夫を待っている自分」というのが、
彼女のアイデンティティの殆どであるはずなのに。
夫のイェンシーは、彼女に自分を思い出してもらおうと様々なことを試みる。
でもまったくうまく行かない。
強制労働先で、妻に宛てて書くだけで出せなかった手紙の束を妻に渡す。
今だに自分を夫と認識できない妻に、「手紙を読んであげる優しい友人」として毎日
妻のもとに通うようになる。このあたりから、私は夫イェンシーの覚悟を感じるのだ。
手紙の中のイェンシーを懐かしみ、恋焦がれる妻。手紙の内容を聞きながら、遠い目をして
幸せそうに聞いている。
実はその手紙を目の前で読んでいる男こそが、他ならぬ自分の夫イェンシーであると気づけずに。
イェンシーは、その時、自分を分断したのだと思う。
手紙を書いた自分、手紙の中の自分、妻の中に住む自分を手放し、独立させて、妻と一緒に
彼らを追いかけ愛そうと思ったに違いない。
認知症の母が生きていた頃、彼女は私によく言ったものだ。「家の子供たちはまだ小さくて
ね、今二階で賑やかに遊んでいると思うわ。あなたのお子さんも小さいの?」
最初のうち、私は悲しくて、「ねー、そのちっちゃい子が大きくなってこの私になったのよ。
そして子供も生んだのね。だから孫なのよ。」などと言い、なんとかわかってもらおうと思った
けれど、母は、毎回「えーっ、そうだったの?」とびっくりしては、次また同じことの繰り返しで、私はとうとうその「小さな私」の存在を、母と一緒に愛してあげようと思い始めたの。
それはそれは不思議な感覚だった。
母の中の「小さな私」を認めることで、私は母が亡くなるまで、寄り添うことができた気が
するの。
5日になると夫が帰ってくる。そう思っている妻ワンイーと一緒に、駅へのお迎えにお供する
イェンシー。
つまり毎月5日になると、イェンシーは自分を迎えに行くのだ。
私は思うのだ。イェンシーは、本当に待ち焦がれているのではないかと。
駅から降りてきた人ごみの中に、自分自身を見つけるその日を。
金曜の朝、リビングと隣続きの和室を覗いたダンナが、「あれえ?ハル君が布団敷いて、勝手に
寝ているよ。」と小さくつぶやいた。また馬鹿なことを言い出して・・と私は、朝食準備のため
の手をいったん止めて、確かめに行く。
布団をめくると娘がそこにいた。我々が深い眠りに落ちた後の、深夜の時間帯に戻ってきたのだ
ろう、まったく気づかなかったのだ。
最近は金曜日にお休みを取りやすいようだ。
午前中、私はポワントクラスを受けずにバレエを早引きし、残りの時間、娘と一緒に遊んで過ご
した。
昨日は息子が帰って来た。息子とは正月の温泉旅行以来である。
「独立した子供達が戻って来たときは楽しく一緒に遊ぶ。彼らが困っていたら、その時はできる
範囲で手を差し伸べる。あとはほっとく。」子供達とのスタンスは、こんな感じである。
夕食後、しばらくしてから、息子がじゃあまた。と帰ってしまうと、私はくったりしてしまった。
いくら心が楽しくても体はついて来てはくれないのだ。
ダンナに後片付けを任せて、横になり、ただテレビ画面を目で追っていた。
そんな私に天からの素晴らしいプレゼントが舞い込んだ。前回見逃してしまって悔しい思いをした
インタビュー番組が再放送されたのだ。
「脚本家木皿泉 × 俳優佐藤健 」という私の中での最高タッグの二人(三人)。
Q10コンビ。その彼らのインタビュー。
木皿泉さんが、「あてて書くことのできない俳優。」と、佐藤健くんのことを言っていた。
いつも自分の予想を大きく超えた演技が、健くんから返ってくるからなのだそうだ。
それが脚本家としては楽しくて、次に進むエネルギーさえもらえる、とも言っていた。
誰もが心を掴まれたであろう、大河ドラマ「龍馬伝」の健くん、「人斬り以蔵」の処刑シーン。
これについての彼のコメントが興味深くてわくわくしてしまった。健くんが言ったのだ。
あれはなんにも自分は芝居していないんだ。と。
以蔵さんが自分に降りてきたとしか考えられない、と。
彼らの言う「降りる」「憑依する」。これらの言葉が私をとても刺激する。
願わくば私も一度経験したいと思うのだ。何かに降りて来てもらいたい。自分とは全く違った
場所で、突き動かされる衝動を感じてみたい。でもそれは日常でなかなか起きることではない
んだろうな。追い詰められて何かを創作していく過程においてのみ起こる、心だけひょいっと
ワープするような経験なんだろうな。
大好きなドラマ「Q10」は、私が好きになる要素がたくさん詰まっていて、その中のひとつに、
健くん演じる「平太」と、池松壮亮くん演じる「久保くん」の絡みがある。
この池松くんが、私は健くんと同じくらい大好きな俳優さんなのです。
無理な注文であるのは承知で、「野ブタをプロデュース」をこのふたりで今一度撮られたもの
を観てみたいものだ。きっと全然違うものになって出来上がってくると思うのだ。
さてここまで書いて、すでに本題は終わっているように見えるかもしれないが、実はこれからが
本題で。
木皿泉さんと佐藤健くんが掛け合う言葉は、刺激的ではあるけれど、同時に全て自分にとって
気持のよい共感を経験できるようなものだった。つまり、自分の心の中に何の違和感もなく
入り込んできてくれる。
さて、つよぽん だ。「つよぽん」こと、スマップの草彅剛くん。
俳優の東出さんとの友達デートの企画で、凄いことを言ってのけたのだ。
「僕ね、台本は自分の台詞しか読まないよ・・」
おっとりとした雰囲気の東出さんも、この時ばかりは一瞬息を詰まらせたような表情をして、
それは怖いなあ・・危険だなあ・・とつぶやいていた。
つよぽんはそれに気づいているのかいないのか、明るくしゃべり続けるのだ。
・・だからさあ、実際今なぜ僕は怒っているのだろう?と分からず芝居してる時もあるわけよ。
でも、後で観ると、それがかえってよかったりするんだよねえ。
でも彼の言っていることには信憑性があるのだ。
今週の火曜日に最終回を迎える「銭の戦争」で、魅力ある主人公を演じているつよぽんがいる
からだ。お金で引き裂かれた婚約者と再会した時に、ふっとよぎるつよぽんの不敵な笑み。
あらゆる場面での、怒り。狂気。焦り。私は毎週ハラハラしながら楽しみに見ているのだけれど。
で、つよぽん。ストーリーライン知らない、なんて言わせない。
でも言われちゃった。
あなたは純粋に馬鹿なのか?天才なのか? 計り知れない。
枠を大きく超えているんだ。それは単に脚本家が描いていたイメージを大きく超えた演技を
俳優がする、というような「理性的な超える」じゃない。
はちゃめちゃに超えているんだ。やっぱり天才なのかもしれない。
東出さんが、自分は車にも洋服にも興味があるので、物欲に支配されるのを恐れていて
コントロールしている・・というようなことを言っていた。素晴らしい考えだ。
つよぽんその横で「革ジャンがなぜかすごい好きでね。100着位持っていると思う。」
と明るく言っていた。ここにも私は彼の何かを超えてしまった大きさを感じるのだ。
もしかしたら物欲の悲しさを、一番知っているのは彼なのかもしれない。とさえ私は
思うのだ。
とにかくね。ずっと見ているからね。
寝ているよ。」と小さくつぶやいた。また馬鹿なことを言い出して・・と私は、朝食準備のため
の手をいったん止めて、確かめに行く。
布団をめくると娘がそこにいた。我々が深い眠りに落ちた後の、深夜の時間帯に戻ってきたのだ
ろう、まったく気づかなかったのだ。
最近は金曜日にお休みを取りやすいようだ。
午前中、私はポワントクラスを受けずにバレエを早引きし、残りの時間、娘と一緒に遊んで過ご
した。
昨日は息子が帰って来た。息子とは正月の温泉旅行以来である。
「独立した子供達が戻って来たときは楽しく一緒に遊ぶ。彼らが困っていたら、その時はできる
範囲で手を差し伸べる。あとはほっとく。」子供達とのスタンスは、こんな感じである。
夕食後、しばらくしてから、息子がじゃあまた。と帰ってしまうと、私はくったりしてしまった。
いくら心が楽しくても体はついて来てはくれないのだ。
ダンナに後片付けを任せて、横になり、ただテレビ画面を目で追っていた。
そんな私に天からの素晴らしいプレゼントが舞い込んだ。前回見逃してしまって悔しい思いをした
インタビュー番組が再放送されたのだ。
「脚本家木皿泉 × 俳優佐藤健 」という私の中での最高タッグの二人(三人)。
Q10コンビ。その彼らのインタビュー。
木皿泉さんが、「あてて書くことのできない俳優。」と、佐藤健くんのことを言っていた。
いつも自分の予想を大きく超えた演技が、健くんから返ってくるからなのだそうだ。
それが脚本家としては楽しくて、次に進むエネルギーさえもらえる、とも言っていた。
誰もが心を掴まれたであろう、大河ドラマ「龍馬伝」の健くん、「人斬り以蔵」の処刑シーン。
これについての彼のコメントが興味深くてわくわくしてしまった。健くんが言ったのだ。
あれはなんにも自分は芝居していないんだ。と。
以蔵さんが自分に降りてきたとしか考えられない、と。
彼らの言う「降りる」「憑依する」。これらの言葉が私をとても刺激する。
願わくば私も一度経験したいと思うのだ。何かに降りて来てもらいたい。自分とは全く違った
場所で、突き動かされる衝動を感じてみたい。でもそれは日常でなかなか起きることではない
んだろうな。追い詰められて何かを創作していく過程においてのみ起こる、心だけひょいっと
ワープするような経験なんだろうな。
大好きなドラマ「Q10」は、私が好きになる要素がたくさん詰まっていて、その中のひとつに、
健くん演じる「平太」と、池松壮亮くん演じる「久保くん」の絡みがある。
この池松くんが、私は健くんと同じくらい大好きな俳優さんなのです。
無理な注文であるのは承知で、「野ブタをプロデュース」をこのふたりで今一度撮られたもの
を観てみたいものだ。きっと全然違うものになって出来上がってくると思うのだ。
さてここまで書いて、すでに本題は終わっているように見えるかもしれないが、実はこれからが
本題で。
木皿泉さんと佐藤健くんが掛け合う言葉は、刺激的ではあるけれど、同時に全て自分にとって
気持のよい共感を経験できるようなものだった。つまり、自分の心の中に何の違和感もなく
入り込んできてくれる。
さて、つよぽん だ。「つよぽん」こと、スマップの草彅剛くん。
俳優の東出さんとの友達デートの企画で、凄いことを言ってのけたのだ。
「僕ね、台本は自分の台詞しか読まないよ・・」
おっとりとした雰囲気の東出さんも、この時ばかりは一瞬息を詰まらせたような表情をして、
それは怖いなあ・・危険だなあ・・とつぶやいていた。
つよぽんはそれに気づいているのかいないのか、明るくしゃべり続けるのだ。
・・だからさあ、実際今なぜ僕は怒っているのだろう?と分からず芝居してる時もあるわけよ。
でも、後で観ると、それがかえってよかったりするんだよねえ。
でも彼の言っていることには信憑性があるのだ。
今週の火曜日に最終回を迎える「銭の戦争」で、魅力ある主人公を演じているつよぽんがいる
からだ。お金で引き裂かれた婚約者と再会した時に、ふっとよぎるつよぽんの不敵な笑み。
あらゆる場面での、怒り。狂気。焦り。私は毎週ハラハラしながら楽しみに見ているのだけれど。
で、つよぽん。ストーリーライン知らない、なんて言わせない。
でも言われちゃった。
あなたは純粋に馬鹿なのか?天才なのか? 計り知れない。
枠を大きく超えているんだ。それは単に脚本家が描いていたイメージを大きく超えた演技を
俳優がする、というような「理性的な超える」じゃない。
はちゃめちゃに超えているんだ。やっぱり天才なのかもしれない。
東出さんが、自分は車にも洋服にも興味があるので、物欲に支配されるのを恐れていて
コントロールしている・・というようなことを言っていた。素晴らしい考えだ。
つよぽんその横で「革ジャンがなぜかすごい好きでね。100着位持っていると思う。」
と明るく言っていた。ここにも私は彼の何かを超えてしまった大きさを感じるのだ。
もしかしたら物欲の悲しさを、一番知っているのは彼なのかもしれない。とさえ私は
思うのだ。
とにかくね。ずっと見ているからね。
今季初めての菜の花に魅せられて、久しぶりにカメラを構えてみる。
菜の花の黄色は、なんて優しく輝かしい色なんだろう。
歩きながら、盛りを迎えた梅に目を奪われる。
そこからふと視線を落とすと、水仙がたわわにお花を付けていた。
私の周り、確実に、春の濃さが増している。
もしも絵が描けたなら・・。
パレットに黄色の絵の具を押し出して、あまりのその明るさに、しばらく眺めてしまいそう。
ひとつの絵がずっと私の中から離れない。
髪の長い、女性像。
慈愛に満ちた笑をほんのり浮かべて、わずかに両目を閉じている。
胸の前には小さな白い手が重ねられている。
丸みを帯びたやわらかな輪郭は、外界との境を曖昧にしている。
溶け出し混じり合う。喜びも怒りも悲しみも静かにたたずみ、微動だにしない。
サリドマイド薬害の被害者であるその女性は、描いたその絵について明るく答えていた。
「自分も女性だって言いたい時がある。でもたぶん周りの人が困ってしまうでしょ。
だからそういう時に自分の中の女性像を描くのです。」
ひとりの友達が、私が付けている真珠を見て、「真珠は、『受難の中の真実』って言うのよ。」
と教えてくれた。
そうだ、真珠のように美しい絵なのです。



菜の花の黄色は、なんて優しく輝かしい色なんだろう。
歩きながら、盛りを迎えた梅に目を奪われる。
そこからふと視線を落とすと、水仙がたわわにお花を付けていた。
私の周り、確実に、春の濃さが増している。
もしも絵が描けたなら・・。
パレットに黄色の絵の具を押し出して、あまりのその明るさに、しばらく眺めてしまいそう。
ひとつの絵がずっと私の中から離れない。
髪の長い、女性像。
慈愛に満ちた笑をほんのり浮かべて、わずかに両目を閉じている。
胸の前には小さな白い手が重ねられている。
丸みを帯びたやわらかな輪郭は、外界との境を曖昧にしている。
溶け出し混じり合う。喜びも怒りも悲しみも静かにたたずみ、微動だにしない。
サリドマイド薬害の被害者であるその女性は、描いたその絵について明るく答えていた。
「自分も女性だって言いたい時がある。でもたぶん周りの人が困ってしまうでしょ。
だからそういう時に自分の中の女性像を描くのです。」
ひとりの友達が、私が付けている真珠を見て、「真珠は、『受難の中の真実』って言うのよ。」
と教えてくれた。
そうだ、真珠のように美しい絵なのです。
家族が風邪をひくと私もひく。抵抗力の弱さが目立つ今日この頃。
この時期の風邪はややこしい。どの症状が風邪なのか、花粉症なのかがわからない。
熱がひいた今、鼻水としつこい咳が残っている。
ひっきりなしにかんでいないと、ぽたぽたと落ちそうになる鼻水は、どちらかというと花粉症
か。目の前にあっという間に積み上げられるティッシュの残骸に、罪悪感を感じはじめ、ティ
ッシュを小さくちぎっては両鼻に詰めてみる。普段通りに洗面所へ行き、鏡に映った自分を見て、
その滑稽さにギョッとした。人が見たら「何ふざけてんの~?」と笑われそうだ。
私が子供の頃から、片鼻の脱脂綿は鼻血の応急措置と決まっていた。
片鼻の詰め物は、痛々しさのイメージがある。
でも両鼻は、いけない。印象がガラリと変わってしまうからだ。
本人は真面目に物事を考えていたとしても、とてもそうは見えない。もしかしたらこの両鼻の
詰め物は、「人をおちょくっているのか、それは。」と怒る人を出すくらいの爆発的な力を
持っているかもしれない。なんたって、真剣さとか真面目さとか緊張などを寄せ付けない
勢いがある。どんなにお洒落をしようがおすまししようが、両鼻に詰め物をした時点で
ジ・エンドである。イメージなんてこんなにもろいものなんだ。
バランスとか端正さとか美しさに対して、敏感でありながらも同時に鈍感でありたいと思った。
イメージは真実を隠すのが上手、だと思うから。間違いなく確信犯だ。
この時期の風邪はややこしい。どの症状が風邪なのか、花粉症なのかがわからない。
熱がひいた今、鼻水としつこい咳が残っている。
ひっきりなしにかんでいないと、ぽたぽたと落ちそうになる鼻水は、どちらかというと花粉症
か。目の前にあっという間に積み上げられるティッシュの残骸に、罪悪感を感じはじめ、ティ
ッシュを小さくちぎっては両鼻に詰めてみる。普段通りに洗面所へ行き、鏡に映った自分を見て、
その滑稽さにギョッとした。人が見たら「何ふざけてんの~?」と笑われそうだ。
私が子供の頃から、片鼻の脱脂綿は鼻血の応急措置と決まっていた。
片鼻の詰め物は、痛々しさのイメージがある。
でも両鼻は、いけない。印象がガラリと変わってしまうからだ。
本人は真面目に物事を考えていたとしても、とてもそうは見えない。もしかしたらこの両鼻の
詰め物は、「人をおちょくっているのか、それは。」と怒る人を出すくらいの爆発的な力を
持っているかもしれない。なんたって、真剣さとか真面目さとか緊張などを寄せ付けない
勢いがある。どんなにお洒落をしようがおすまししようが、両鼻に詰め物をした時点で
ジ・エンドである。イメージなんてこんなにもろいものなんだ。
バランスとか端正さとか美しさに対して、敏感でありながらも同時に鈍感でありたいと思った。
イメージは真実を隠すのが上手、だと思うから。間違いなく確信犯だ。
気温が徐々に上がってくると、氷が溶け出すように身体が緩み始める。
緩みが不快につながるのは私だけなのだろうか? この季節のいつもの憂鬱を、例外なく
感じながら毎日過ごしています。
今年に入ってからもうすでに2ヶ月近く過ぎようとしている。
新年を迎える度に、平和と安定を望みながら、今年はちょっと違った趣の一年を・・と期待して
しまうのは私の癖みたいなものだ。
期待そのものが長年の間にマンネリ化して、形だけのものになりつつあった。
でも今年はちょっといつもと違った流れの中に自分がいるのを感じている。
古い友人との再会が極端に増えたのもそのひとつだ。
子育てや仕事で手一杯だった日々が落ち着いてきたからだと思う。何十年ぶりかの旧友との再会
の後、ではこれを機にたまに集まって、お互い死ぬまで一緒に生きて行きましょうかねえ・・
という感じなのである。
人生終盤における友達関係の新たな始まり と、言えるのかもしれない。
「終盤」というのは寂しいけれど、「始まり」でもあるのだから楽しもうと思う。
そういう流れの中で、10日前ほどに大学時代の先輩 まあちゃんに20数年ぶりに会うことが
できた。上野で、水墨画の展覧会に出品しているまあちゃんを、同期のタエとチカで訪ねたか
らだ。
まあちゃんは、昔のまあちゃんのままだった。
違うのは、お弟子さんから「先生」と呼ばれたりして、上品さと落ち着きを備えていたことだ。
大学時代のまあちゃんは、「てめーなあ・・」と後輩の男子をよく小突いていたものだ。
人は地位とか年齢とか環境によって影響を受けやすいということがわかっているからこそ、
中身の素の部分が昔のまあちゃんと全然変わっていないことが私はとても嬉しかった。
結婚してから子供を持つまでの5年間くらい、まあちゃんと毎週のように遊んでいるとき
があった。とても懐かしい。
お弟子さんの前ではしゃきっとしてなくてはならないのでしょうけれど、次回上京した時は、
是非まあちゃんの泥酔状態が見てみたいと思っている私です。
緩みが不快につながるのは私だけなのだろうか? この季節のいつもの憂鬱を、例外なく
感じながら毎日過ごしています。
今年に入ってからもうすでに2ヶ月近く過ぎようとしている。
新年を迎える度に、平和と安定を望みながら、今年はちょっと違った趣の一年を・・と期待して
しまうのは私の癖みたいなものだ。
期待そのものが長年の間にマンネリ化して、形だけのものになりつつあった。
でも今年はちょっといつもと違った流れの中に自分がいるのを感じている。
古い友人との再会が極端に増えたのもそのひとつだ。
子育てや仕事で手一杯だった日々が落ち着いてきたからだと思う。何十年ぶりかの旧友との再会
の後、ではこれを機にたまに集まって、お互い死ぬまで一緒に生きて行きましょうかねえ・・
という感じなのである。
人生終盤における友達関係の新たな始まり と、言えるのかもしれない。
「終盤」というのは寂しいけれど、「始まり」でもあるのだから楽しもうと思う。
そういう流れの中で、10日前ほどに大学時代の先輩 まあちゃんに20数年ぶりに会うことが
できた。上野で、水墨画の展覧会に出品しているまあちゃんを、同期のタエとチカで訪ねたか
らだ。
まあちゃんは、昔のまあちゃんのままだった。
違うのは、お弟子さんから「先生」と呼ばれたりして、上品さと落ち着きを備えていたことだ。
大学時代のまあちゃんは、「てめーなあ・・」と後輩の男子をよく小突いていたものだ。
人は地位とか年齢とか環境によって影響を受けやすいということがわかっているからこそ、
中身の素の部分が昔のまあちゃんと全然変わっていないことが私はとても嬉しかった。
結婚してから子供を持つまでの5年間くらい、まあちゃんと毎週のように遊んでいるとき
があった。とても懐かしい。
お弟子さんの前ではしゃきっとしてなくてはならないのでしょうけれど、次回上京した時は、
是非まあちゃんの泥酔状態が見てみたいと思っている私です。
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